数学と自分.その②

今回は前作(https://gmaphy.hatenablog.com/entry/2020/06/09/202318)の続編であって、ぼくが書きたいことを、書きたいままに、ただ書いているものである。

 

このブログは、言わば川へ流す草船のようなものである。

小さい頃に、雑草をちぎってこれを船のような気持ちで、「それいけー」と川へ流して遊ぶのが好きだった。

ブログを書きながら、こんな幼少期の情景が想起されるのである。懐かしい。

本作も、時間的存在としての自分の"流れ"に、「それいけー」と流してゆきたい。

それがどこに行くのかは、わからない。なんでもいいカナ。

 

さて、今回は、

・数学の何がそんなに面白いの?

への"今のぼくが思うこと"と、

・数学の先生になろうとは思わなかったの?

について思うことを書いていきたい。

 

まず最初に書いておきたい事がある。

ぼくは勉強(いわゆる"学校の"勉強)が好きかと言うと、全然そういうわけでは、ない。

たとえ数学であっても、である。

ぼくは高校生の時に、「師匠と交わす数学」と「勉強としての数学」を意識的に区別していた。これらは異なる質を持っていた。全くの別物である。

学校の定期試験の勉強などは一切しなかった。

受験勉強はというと、師匠から「自分の道を歩むには、乗り越えてゆかねばならないものがあるのだ。受験勉強が終われば、存分にお前の好きなやりたい数学を自由にやるがいい。」と説得され、2ヶ月間だけ、「この2ヶ月だけでぜったいに終わらしたる」と意気込んで、この期間だけは寝食を惜しんでやり、ササッと済ませた。

受験勉強ですら、しぶしぶと「仕方がないなあ…」という調子であったので、高校の先生方にはだいぶ困らせていたと思う。ただAO入試だったので12月には終わっていた。受験は文字どうり数学一本でぶち通した。その年の12月の誕生日は穏やかであったなあ。

 

そんなわけで、

『たとえ数学であっても、勉強としての数学は所詮つまらない。』という感覚を、数学をやり始めたくらいから強く、お持っている。

 

一方で、ぼくが親しんできた"勉強とは異質の数学"が存在している。

その最初の芽生えが、師匠と交わす数学であったのである。

この違いはどこからくるのか。

これは例えば、人間と人形の違いとよく似ている。

どちらも人ではあるが、内に流れている質が異なっているでしょう。

人形の魂は枯れていて、人間の魂は生きて躍動している。

やはり人形の人とは関わっていてつまらなく、人間の人には心底惹かれる。

人間同士はこころが通う。こころ通うところに、生きる喜びが生まれる。

 

数学でもそうなのですね。

ぼくは岡潔先生の『数学は生きものです。』という言葉を大のお気に入りにしている。

心惹かれる数学というのは、生き生きとしていて、瑞々しい。

意思も感情も持っていて、生命の力づよさとしなやかさを兼ね備えている。

師匠と交わしていた数学は、まさに生きもののそれであった。

 

これはもう、数学を学ぶという行為からはみ出している。

つまり、何も数学に限定した話ではなくなってくる。

数式を自在に操る事は、食事でいう箸の使い方を覚えるようなもので、だから大切な事は、その先、もっと奥にある。

ちなみにぼくは箸があまりうまく使えません。それでも、箸の使い方が上手い人と「食事を味わう」という点で劣るものがあるかというと、そんな事はぜんぜんないわけで。

気にしてないわけです。だから、数学でも、勉強ができなくても大して気にすることはない。数学を通した営みを『味わう』ことは誰にでも平等に開かれていて自由であると。ぼくはそう思っているわけです。

美味しいご飯を食べると感動するでしょう。

生きもの同士で感情が通うから、感動する。

こころがぱぁ〜と柔らかくなって開いてくる。お湯に浸かったお茶っ葉のように。

数学の営みを通して起こる感動も、同じ感覚なのです。

人間同士でも、人間と数学でも、生きもの同士で一緒のこと。

 

師匠もよく言っていた。

「数学は、頭が良い人だろうがそうでない人であろうが、誰にでも開かれているんだ!」と。「人は裏切ることがあっても、数学は裏切ることがない。」とも。

師匠は数学を心から信じていた。ぼくはその師匠を信じ、師匠の信じる数学をぼくも信じ、ここまでやってきた。

 

数学の問題は言わばごはんのようなもので、もちろん美味しいもの、まずいもの、好むのもの、苦手なものと色々ある。

これは本来、一人ひとりにあるはずのこと。みんな個性がある。

ところが、勉強となると途端にこれを無視して、なんでもかんでも早く多く食べればいいと勘違いして、宿題をいっぱいテンコ盛りに出したりするでしょう。そんで「はい、食べなさい!」とするでしょう。これはいくらなんでもおかしい。子供達が本当に気の毒である。

 

少し脱線するが、小学3年生の時に、給食で出た苦手なプリン(のようなもの)を無理やり食べさせられたことがあった。食べないと先生はカンカンに怒っていたので無理やり口に含んで飲み込んだ。その日からあのプリンのような意味不明な食べ物は大嫌いになった。トラウマ的とも言える事件であった。こういうのは根強く自分の中に残る。

 

こういう経験があるので、「数学は嫌いです。」という人の気持ちに、実はずいぶん共感するところがある。この数学を嫌いになってしまった人もきっと、数学の問題を、ぼくのあのプリンと同じように無理やり詰め込まれたのだろうか、と思う。

あの、いや〜な感覚はよくわかるし、残ってる。

そんなことで食事は楽しくなりますか。数学は楽しくなりますか。

いいえ、そんなことはありませんね。

 

数学の楽しさを語ることと、食事の楽しさを語ることは、本質は同じだと思う。

舌がべろなのか、大脳前頭葉なのか、その違いこそあれども。

つまり、ぼくは師匠とどのように数学をやっていたのかというと、ちょうど一緒にご飯を楽しくゆっくり食べるようにやっていたのである。

「せかせか食べたい人はよそでやってください。」という気持ちで、勉強としての数学とは一線を引いていた。師匠と交わす数学の営みはずっとゆっくりだった。

 

たった一つの数学の問題を消化するのに、丸一日かけることは当たり前で、時には一週間、時には一ヶ月かけることだって珍しくなかった。

手紙のようなペースでゆっくりと。メールのようにせかせかはしなかった。

 

数学が得意になること、食事で箸をうまく使えるようになること。いいでしょう。もちろんこれらが大事ではないとは、言わないけれど。

けれど。そこにこだわっていては、味わう楽しさはやってこないと思う。

 

一番いいのは、誰かと一緒にゆっくり味わい、喜びを分かち合うこと。

数学でも、食事でも、瞑想でも。なんでもそうだと思う。

ぼくはそう思い、そう確信し、人生を生きている。

 

ぼくは、美味しいプリンを食べるまで、プリンはまずい食べ物だと思い込んでいた。

友達と一緒に食べたプリンに感動した時、プリンって美味しいと思った。

また、次のようなこともある。

昔はお酒なんておいしいとはとても思わなかったが、今はおいしいと感じる。

大学に来てから飲んだ日本酒が絶句するほどうまくて感動した。日本酒最高である。

つまりは、昔は嫌いだったり苦手だったりしたものも、では一生ずっとそうかというと、案外そういうわけではないということが多い。

からだもこころも、変化していく。生命は無常である。

 

だから、数学が嫌いという人とも数学の味わいを分かち合える可能性は、常に開かれている。

これは幸運なことだと思う。

では数学の先生になったらいいではないか、と思う人もいるかと思うが、ぼくはそうしなかった。

別の道を選んだ。

これについて書いてみたい。

 

先に書いたように、ぼくは日本酒が大好きな人である。

しかし、ビールは全く好みでなくほとんど飲まない。

どちらも酒ではあるが、日本酒は(その名の通り)米からくる東洋的な質を持っていて、ビールは麦からくる西洋的な質を持っていて、これらは異なる質を持っている。

 

ぼくが言いたいのは、今現在で数学と呼ばれているものはビールのようなものだということである。

もし世界中で酒がビールばかりで日本酒が撲滅していたら、ぼくは酒のうまさにたどり着けなかったかもしれない。

もちろん、今までの話の流れから、ビールのうまさに目覚める可能性もあるが。

ビールもあって、日本酒もあって、お酒に『多様性』があってこそ、多くの人がお酒を楽しみ味わうことができる。

 

しかし、今の数学にこのような多様性は感じられないのである。

大学の数学科にきて、数学のビールのような傾向はますます高まるばかりであった。

今の数学界はまるでビールの生産工場によって埋め尽くされているかのように、ぼくには感じられた。

段々とぼくは今の数学に嫌気が刺すようになっていった。

ふと振り返ってみると、中学生から習う数学にも、程度の差こそあれど、このような傾向は少なからずあると、ぼくの調べでわかった。

つまりぼくは、まずは数学に『多様性』を宿したいと思っているわけなのである。

もっとはっきりと言おう。

 

『ビールのような数学だけではなく、日本酒のような数学が創造できないか。』

 

これが、今ぼくが取り組んでいるテーマである。

 

それ故に、ぼくとしては、まだ数学を分かち合う"以前"の問題だと感じている。

日本酒のような数学が拓けて初めて、よりたくさんの人と数学の味わいを共にすることができると、ぼくは考えている。

もしお酒を楽しむのに、ビールしか選択肢がなかったら、なんだか寂しい感じがする。

 

だから、"今はまだ"、ぼくは数学の先生になろうとは思わない。

でもこれから、

ぼくが師匠と数学の味わいを分かち合ったように、

家族や友達と食事の味わいを分かち合ったように、

色んな人と生きる喜びを分かち合っていく人でありたいと思う。

 

そして、

ぼくがビールが苦手でも日本酒の感動に出会ったように、

今の数学が苦手でも大丈夫な、

そんな"日本酒のような数学"をたとえ一人にでも人生の中で届けることができて、

数学の味わいと感動を分かち合うことができたら、

とても嬉しいことだと思う。

 

そんな人生を歩いてゆきたい。

。。。 。。。

 

また気が向いたら何か書こうかな。

次は岡潔先生をピックアップしようか。

それじゃあ今回はここまで。

ではまた。