水と自分〜雨の音を聴きながら〜

眠れぬ夜に、真っ暗な部屋で、ある回想を広げていた。

 

ぼくは大学1年生の時、当時所属していたサークルで、自分の考えていることを何でもいいから発表してもいいという機会に巡り合った。

いましていた回想とは、この時に自分が発表したことについてである。

 

この時に自分は「じゃあ、発表させてもらいます。」と席を立ち上がり、自分の話をした。

 

お題は『ぼくは、水になりたい。』というものであった。

 

この時、聴講者の反応は「なんかちょっとヤバイこと話し始めたぞ」という感じで、ぼくが何を言おうとしているのか興味を持ってもらい、質問を頂きながらわりと長い時間発表させてもらったことを覚えている。

意味不明と投げ出されることはなく、むしろ何とか理解しようと努めてくれるような人たちで嬉しかった。というか、ぼくという人間に純粋に興味をもってくれていたんだと思う。

 

確か、持ち時間がもともと10分くらいのところ、1時間以上は話していたんじゃないか。

途中で「長すぎる。というか終わらんぞこの話。」ということになり打ち切りにはなったが。

 

この『水になりたい。』という、ぼくのある種の信念はその後も貫かれることになる。

 

何よりまず、ぼくにとって水という存在が堪らなく愛おしい。

晴れの日より雨の日が好きなのは当然のことながら、天気は嵐になればなるほど鼓動は高鳴り、テンションはハイになっていく。

どしゃ降りほど、風が荒れ狂うほど、気分が高揚してくる。

 

天気が嵐だとわかれば、すぐさま濡れていい服装に着替え、嵐の中にわくわくしながら突入してゆき、気が済むまでひたすら雨に浸されている。

普段の生活の中でテンションが上がることはそうないのだが、時々くる嵐の日は「よし来た!」と言わんばかりにテンションが爆上がりする。とまあ、こんな調子である。

 

人に「なぜ、雨に濡れるのがそんなに好きなの」と聞かれたら、

ぼくは「雨に濡れていると、人であることへの自意識が溶けていって、人であることをすっかり忘れられるから。その時間が好きなんだよね。」と答えていた。

 

よく人にこう言っていた。

『ぼくは自分が人であることを何だか窮屈に感じている』と。

 

ところが、大学3年生頃に少し心境に変化が生じる。

ぼくは自分にこう問いかけた。

「自分は人であると言えるか。自分は男であると言えるか。」と。

 

問いを発してからわずか3秒後、結論は出ていた。

「否。そんなことは言えない」と。

 

ぼくは気づいた。

自分が人であると思っているのは、単なる思い込みにすぎないということに。

ほんとうは、自分の存在は、人でもあり、水でもありうると。

水に"なれる"という気づきが、全身を閃光の如く貫いた。

 

ぼくが人であることに窮屈さを感じていたのは、自分で自分にその窮屈な鎖をかけていたからに他ならない。

ぼくは、初めから自由だった。気づいてしまった、

「水になりたい。」という以前に、ぼくはすでに『水でもありうる。」という事実に。

 

雨に濡れている時、ぼくは本当に水に"なっている"のだ。

人という枷は初めからありはしない。

もしあるとすれば、それは自分で作っているということ。つまりは幻想だ。

 

同様に、自分は男であると言うことはできなくて、

正しくは、「自分は必ずしも男であるとは限らない」がほんとのように思う。

己の存在自体は、男性も女性も両性を兼ね備えているから。

自分は男であると言うことは、存在の女性的な側面を見ないように蓋をしているだけのことで、意識する側によって男にも女にもなりうる。

 

生きものというのはなんて不思議で面白いのだろうと、大変感心した思い出がある。

学校で教わっていた、いや押し付けられていた、人らしさだの男らしさだの、くだらないものをひょいと降ろしたとき、世の神秘さに心底から惚れ惚れとする瞬間がやってくる。

 

水になりたきゃなればいい。自分の存在に内在する水の質を呼び起こしてくればいい。

女になりたきゃなればいい。自分の存在に内在する女性の質を呼び醒ましてくればいい。

木にだって、雲にだって、石にだって、なればいいさ。

 

「なれっこない」というブロックを握りしめるのをやめて、自分が作った檻から出てきて自由になればいい。初めから自由だった。ずっと、自由だった。気づく、強烈に。

 

そうすると、周りの物事への味方がぜーんぶひっくり返る。

木は木だと決めつけてはいなかったか?

男とは男、女は女だと、それしか見てはいなかったか?

"その人の存在自身"を見ようとしてきたか?

あれは水であって人ではないとか、ぼくは人であって水ではないとか、そういうくだらない思考が紛れ込むと、物事をありのままにはみれなくなるのではないか?

 

そういう自己反省を経て、いまの自分がある。

自分をみることは他人をみることであり、他人をみることもまた自分をみること。

自分をありのままに観ることができなければ、どうして他人のことをありのままに観ることができようか。

ぼくたちは、何者でもなく、すでに"何者でもある"ということに、ハッキリと、気づき自覚することが、物事の見方を根本から反転させる。

 

ぼくはやっぱり今でも、水になりたいと思う。

水が好きだ。ちょうどいま、雨も降っている。

今日もまた、傘をささずお出かけしようか。

水に、なってこようか。水に、なれるんだ。

 

おっと、身体は置いていかないように。忘れものはないかな。

自分が人であると縛られているうちは、身体のこともわからないもの。

視点が反転して、目が瞠いて初めて、身体にも向き合えると思う。

 

人間の素晴らしいところは、"人でありながらも水でもありうる"ことができる点にある。

つまり、存在の多重性を意識的に実現できる。

これこそ、身体あってこそできる芸ではなかろうか。

 

水になっても、何も人の質を捨てることはない。

全ては両立する。それだけ存在はそれ自身で深い。

限りの無い深みと豊かさを持っている。

 

だから、水になれる。己の水の質を想起し、これを立たせうる。

人間は、おもしろい。いやはや、感嘆に浸るばかりである。

 

雨の音を聴きながら、そんなことを考えていた。

これは、ある水が好きな一人の人間の、泡ぶくのようなエッセイである。

ぶくぶくと、泡のように、

読んだ人のこころのなかで、楽しく弾け飛んで欲しいなと、

そう思いながら、ここで筆をおくことにする。

じゃ、またね。