てをうごかすこと
手をうごかす
なにかを書いたり、組み立てたり、いじってみたり
そうすると、なにかが生まれる
気づきやはっけんが、ふと顔をあらわす
う~ん、とうなっているだけでは出会えなかったこの子たち
なにかに悩んでいるときは、手をうごかしてみよう
そうすると、じぶんがなにに悩んでいるのか、わかってくる
案外それは、気づいていなかっただけかもしれない
人生、頭でっかちにうぬうぬしてるよりも、手をうごかしてなにかしら表現してみると
豊かな気づきやはっけんが、ぼくたちを出向いてくれる
それは、ゆたかな出会いに満ちている
あさのうんどう
あさ起きる
外はまだくらい
ぼんやりしていると、鳥や草木の囁きがきこえてくる
ふと、そとへさんぽへでかけてみる
はしってみると、ぜえぜえと苦しいが、気持ちが晴れやかになる
成長には痛みや苦しみが伴う
その意味は決して暗いものとは限らない
こんな風に、気持ちの良い苦しさもあるものだと気がついた
そこには、苦しみと共に、確かな成長を感じるからだ
きょうも、あしたも、これからも、苦しみを味わう
その一歩一歩を、かろやかに、そしてたのしく、生きてゆこう
しゅうちゅうりょく
しゅうちゅう力、という力がある。
通常、この言葉は集中力と書かれる。
だけど、ぼくは、集“注”力が、真に適した言葉だと感じている。
注意を集める力、ということである。
この「集注力」がとっても大切であり、そしてまた、現代のぼくらに最も不足している力のひとつなのではないかと、ぼくは思っている。
なぜなら、ぼくたちはますます、“ほんもの”がわからくなってきていて、そのほんものは、集注力をぐぐーっとそそがなければ、わからないものだから。
たとえば、ぼくは、自然、特に木に対して、その数か月間、集注力をとにかくそそいできた。
すると、木のことがはっ!とわかったり、木の香りを感じることができたり、様々なことに、集注力を通して“気づく”ことができた。
これが、木をわかる、ということなのかと、ぼくはひどく感心し感動したのであるが、そんな心情を共感できる人が、一体世界に何人いるだろうか。
つい最近、偶然、一人出会うことができた。
その時は、明らかに周りから浮いていて、周りからは「何言ってんだこの人ら?」という感じだった。
でもよくよく考えてみると、ぼくらは木なしには生きられず、人類が誕生した時から、ず~と寄り添い生きてきたはずだ。
そんなごく身近な、木という存在に対してさえ、ぼくらは注意を向け、それらにほんとうに寄り添うことを、ほとんどしなくなってしまった。
ぼくはそう、感じている。
木に限らず、一般にぼくらは、気づいていないことがあまりにも多すぎる、とは思わないだろうか。
社会というもの、それらに人間勝手につくられたルール、それらにきちんと注意を向けたことがあるだろうか。
あるいは、それはルールだからと、諦めているのだろうか。
常識ってなんなんだろうか。
そうやって言い訳してるのではないだろうか。
仕方がないと。
だからこそ、社会に惑わされ、“ほんもの”がよくわからなくなってしまったぼくたちに必要なのは、集注力なのである。
じーっとなにかに注意を向ける。
向けつづけていると、ぼんやりと、なにかがわかってくる。じわじわと。
それは、大体の場合、言葉にならない。
言葉にならないからこそ、それはほんものなのだ。
集注力を磨き、“ほんものを見る心の目”を養っていこう。
その努力はきっと、セカイをまるで違った風景へと豹変していく。
その変化は、ぼくたちが変化し、成長してゆく証となる。
木の香り
散歩をしていて、おもしろい発見があった。
木の香りを、ふと感じたのだ。
通りかかる人やなんやらを度外視し、ひたすら木に向き合っていると、こんなことが起こった
せかいはまだまだおもしろいなあとおもう。
説明するのが難しいが、ぼくが感じたのは、木の匂い、ではなく、香り、である。
人も同じように、ひとりひとりには、それぞれの特有の‘‘香り‘‘が存在するのだと、ぼくは感じている。
その香りがわかるのはごくごく稀なことだが、それを木から、はじめて感じることができた。
しかしまあ、案外、人も木も、そんなに変わらないじゃないか、というぼくの直感が、日々過ごしていく中で確信へと変化していく様子を、じぶんのなかにかんじる。
木も、日々なにかを感じ、歌い、踊っているのだ。
生きとし生けるものは、みなそうなのだと、ぼくはおもう。
朝のまほう
朝起きは、不思議だ
朝早くに、しゃきっと起きると、その日は元気よく、調子がいい
逆に、朝寝坊すると、たくさん寝たはずなのに、体がだるく、日中ねむい
ほかにも、
朝起きすると、朝ごはんも落ち着いて食べられるし、よく集中もできる
そして、朝を有効に使い、価値あることを成したのだと、不思議な満足感が湧いてくる
あぁ、きっと朝起きには、魔法がかかっているのだ。
そうおもってみると、なんだか朝起きが、わくわくへと満ちてゆく