しゅうちゅうりょく

しゅうちゅう力、という力がある。

 

通常、この言葉は集中力と書かれる。

 

だけど、ぼくは、集“注”力が、真に適した言葉だと感じている。

 

注意を集める力、ということである。

 

この「集注力」がとっても大切であり、そしてまた、現代のぼくらに最も不足している力のひとつなのではないかと、ぼくは思っている。

 

なぜなら、ぼくたちはますます、“ほんもの”がわからくなってきていて、そのほんものは、集注力をぐぐーっとそそがなければ、わからないものだから。

 

たとえば、ぼくは、自然、特に木に対して、その数か月間、集注力をとにかくそそいできた。

 

すると、木のことがはっ!とわかったり、木の香りを感じることができたり、様々なことに、集注力を通して“気づく”ことができた。

 

これが、木をわかる、ということなのかと、ぼくはひどく感心し感動したのであるが、そんな心情を共感できる人が、一体世界に何人いるだろうか。

 

つい最近、偶然、一人出会うことができた。

その時は、明らかに周りから浮いていて、周りからは「何言ってんだこの人ら?」という感じだった。  

 

でもよくよく考えてみると、ぼくらは木なしには生きられず、人類が誕生した時から、ず~と寄り添い生きてきたはずだ。

 

そんなごく身近な、木という存在に対してさえ、ぼくらは注意を向け、それらにほんとうに寄り添うことを、ほとんどしなくなってしまった。

 

ぼくはそう、感じている。

 

木に限らず、一般にぼくらは、気づいていないことがあまりにも多すぎる、とは思わないだろうか。

 

社会というもの、それらに人間勝手につくられたルール、それらにきちんと注意を向けたことがあるだろうか。

 

あるいは、それはルールだからと、諦めているのだろうか。

 

常識ってなんなんだろうか。

そうやって言い訳してるのではないだろうか。

仕方がないと。

 

だからこそ、社会に惑わされ、“ほんもの”がよくわからなくなってしまったぼくたちに必要なのは、集注力なのである。

 

じーっとなにかに注意を向ける。

向けつづけていると、ぼんやりと、なにかがわかってくる。じわじわと。

 

それは、大体の場合、言葉にならない。

 

言葉にならないからこそ、それはほんものなのだ。

 

集注力を磨き、“ほんものを見る心の目”を養っていこう。

 

その努力はきっと、セカイをまるで違った風景へと豹変していく。

 

その変化は、ぼくたちが変化し、成長してゆく証となる。